ルドルフの稽古に行っていますよ

最近は毎日とは言いませんが演劇の稽古に専ら従事しております。

ルドルフという団体の『まつろはぬものの記 探訪宇治拾遺物語』という演劇です。

その名前の通り、宇治拾遺物語に題を採った演劇なのです。

 

平安時代の文学が原作だなんて、そんな文学的な企画にお前ワンマンショーだらをやっている丸山、お前なんかが参加しておったら迷惑でしかあるまい。なにをしておるのだ、帰っておいで、お前の居る場所はそこにあるドブ川だよ。と言われるかもしれませんが、実はそこのところ、そうでもないのです。

いや、僕がドブ川の住人であることは認めますが、違うのです。平安時代の文学、国語の便覧に載るような作品を原作にしておるからといって文学的であるかというと決してそうではないのです。いや、全く文学的ではないか、というとそうではありませんよ。ちょっとは文学です。でも「文学的である」という言葉から連想されうる難解さとは一線を画していると私は言いたいのです。おもろいのですよ。おもろさがある。

ちょうど同じ『宇治拾遺物語』を池澤夏樹の日本文学全集で僕の大好きな町田康が訳をしていて、異常に面白くてひくひく笑ったりしたのだけれど、この人が確かNHKのラジオ深夜便かなんかで言っていたのです。古典はむつかしい。なんでむつかしいか。わからないからである。どうしたらいいか。自分の言葉で訳せばいいのだ。そしたらわかる。わかって内容をみてみると割と面白い、みたいなことだった気がしますが。まあ、そういうことを言っていました。

 

今回は脚本演出の筒井さんが宇治拾遺物語から二編の物語を単純に今にわかる言葉に訳するのではなく、更に一歩進めて演劇という手法を使って訳しています。演劇になって内容をわかってみるとこれが中々おもろいのですね。

脚本を最初読んだとき、そのあまりの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまったのですが、その現代に生きる間抜けなデブを笑わせた馬鹿馬鹿しさは、演劇という形で演出され立体化することでさらに馬鹿馬鹿しさを増しています。

そして例えばこの演劇を見て笑ったり、馬鹿馬鹿しいな、面白いな、と思ったりする時、それは平安時代に生きた人間の感受性に対する共感を孕んでいると思うのです。そのとき不思議なカタルシスを感じるのですが、このカタルシスは自分の感受性というものに、歴史であるとか、自分では想像もつかないくらいの広い世界の裏付けを感じるカタルシスなのでしょうか。面白いと思える自分を肯定するような気持になれるのです。これが中々気持ちいいのですね。

この演劇にはそういう効能があると僕は見ています。

 

面白いし、面白いと思った時の気持ちよさにも優れている。と言えばよいでしょうか。

またもう一回くらいこの演劇について書こうと思いますが、ひとます今日はこのへんで。

 

以下情報です。

よろしければご来場ください。僕は夜にやる闇の章に出ています。光の章にもほんの少しだけ出ています。

 

ルドルフVol.5

『まつろはぬものの記 探訪宇治拾遺物語』

脚本・演出 筒井加寿子

 

日時 10月12日(木)19時(闇の章)

   10月13日(金)14時(光の章)19時(闇の章)

   10月14日(土)14時(光の章)18時半(闇の章)

   ※開場は開演の30分前

 

料金 光の章 前売 一般 2000円 学生1500円

       当日 一般 2200円 学生1700円

   闇の章 前売 一般 2800円 学生2300円

       当日 一般 3000円 学生2500円

 

開場 永運院(京都市左京区黒谷町33)

   ※京都市バス岡崎道から徒歩10分

 

ご予約 http://ticket.corich.jp/apply/85005/005/

 

詳細は特設ページをご覧ください。会場への地図とかキャストの情報とかそういうのが載っていますよ。

↓↓↓

http://rudolf.kyoto.jp/stage/vol5/

 

 

てまり「おそらく深夜」をみた。

招待していただいて、しらとりまなさんの企画、てまり、の「おそらく深夜」という作品を大阪でみた。

 

自分のことをしゃべるというのはなんとドラマチックなんやろう、と思う。

 

僕はそれだけでみていて泣きそうになってしまう。その人がその人のことをむき出しになって語る姿はそれだけでみていてすがすがしい。好きだ。

 

彼女が語った内容に関しては感性がすぐている人たちにお任せしよう。僕は女の気持ちなんてまったくわからん。わかればもうちっとモテておる。

 

だからといって何も思わなかったかというと、そんなことはない。
彼女は自分の恋愛譚から始まる様々を演じて、語って、或いは読んだ。それくらいはわかる。

僕は私小説が好きだ。車谷長吉や西村賢太、椎名誠。これらの人々の私小説は僕の人生に大いに影響を与えている。
笑福亭鶴瓶師匠のトークも大好きだ。この人も自分の身に起こった出来事を作品にまで昇華させて、僕たちを笑わせて、泣かせてくれる。

 

これらの何が素晴らしいか、それは自分をさらけ出して作品にしよう、という覚悟だと僕は感じている。

車谷長吉の小説は「業曝し」なんて形容されたりするけれど、今回の作品も、20代中盤の女性の「業曝し」であったと思う。
普通20代中盤の女が「業曝し」なんてしないと思うのだけれど、しらとりさんはそれをしていて。
それをしようという精神性がもう作品なのだ、と僕は思う。

 

これからもしらとりさんは作品を発表していくらしい。
女の業、そしてそれを表現せずには居れない業を背負い続けて作品が生み出され続ける限り、僕はその

作品を楽しみにし続けるのだろうと思うのです。

 

観にいくと良いと思います。業を背負った女は色気がありますよ。

 

0 コメント

ワンマンショーを終えて、個人的な


ワンマンショーをやりました。
「ワンマンショー」をグーグルで検索してみると、予測で「ワンマンショー 及川光博」と出てきて、ああ、僕は中々と気合いの入ったことをしたのかもしれない、と思ったのでした。


僕は元々口べたなのです。
学生時代はもっぱら寡黙に過ごしていましたし、家族との関わりも、僕が話をする、というふうではなく、家族の話を僕が聞く、というような形をとっています。
おそらく今まで喋ってきた量は皆様とは比べものにならないくらい少ないでしょう。


そういう人間がやったワンマンショーが、ああいうことですね。


喋りながら、なんと不器用なやつか、こいつは、小慣れていないなあ、あ、またつっかえた、いかんいかん。なんて思いながら。
それでも僕が喋らなければ終わりに向かって進んで行きません。
喋り続けなければいけない。
脳味噌の中にたたき込んだはずの、ワードをつなげて探して、展開させて。
いや、お喋りをするのは本当に大変だ、と思いながら、50分。

終わったら、喉はイガイガ、汗だく、シャツのボタンは外れているし。
みっともない姿をさらしてしまいました。

もっと頑張る必要があるなあ、と思いました。


次回は必ず今回より良いものになるでしょう。
今回だって正直悪くないと思っていますが、次回は確実に良くなる。
なにをやったら良くなるか、これがはっきりと見えていることの、なんとヤルキを誘うことか。

なんと今回見えているのです。
今までの人生ではあんまり経験の無いことなのです。


あとは次回の面白さを追求する心の体力。これは初回に皆様が笑っていただけたからか自信がつきまして、見ッ事満タンになっています。ありがとうございます。
何事かが起こらない限り、大丈夫、心の体力、もつでしょう。

こう考えると、次回、多分今回より面白いです。


あと、今回の「露出狂」という演目に関して。

考え過ぎ面、喋りすぎ面に関する反省も多いです。おそらく次に「露出狂」を喋りすぎる際(おそらく近いうちにあるでしょう)はこれも、クオリティがあがっていると思います。上げたいなあ、と思っているので。

この向上心、僕は僕の心持ちにびっくりしています。


面白いことがしたいのだろうなあ。と思います。
ちょっと頑張ったほうが気持ち良さそうなので、頑張ってみようと思います。


トップページの更新でも少し書きました。考えすぎる際の話相手になってくれる人、稽古場に居てくれる人、写真を撮ってくれる人、ホームページの相談に乗ってくれる人、急募しています。


特に写真。

いつまでもTwitterのアイコンを故・山城新伍さんにしていてはいけないのです。
そんなつまらないおもしろをたれ流しているわけにはいかないのです。

なんかいろいろな条件等、あればお話お聞きしたいです、ご飯行きましょう話をしましょう。ぜひぜひ、ご連絡をください。


これからも「考えすぎの喋りすぎ」だけでなく、様々なワンマンショーをやっていこうと思います。
どんどん頻度も増やして行く予定です。

また、ご連絡しますね。



あと、出演情報に載せるか迷っているのですが、京都学生演劇祭、関わっています。
観劇レポーターとして全劇団を観劇して、レビューを書くことになりました。
もう一つ、飄々舎さん主催の同窓会にゲストとして出席します。
盛り上がったら素敵なイベントだと思いますので、盛り上がるように、盛り上げる為に、頑張ろうと思います。


いくつか未確定な出演情報、あります。確定次第、また。


とりあえず、ワンマンショーを終えての雑感、次回への展望、近況などでした。
前向きなうちに書いてしまおうと思って書いてしまいましたよ。
読んでいただいてありがとうございます。
失礼をばいたいします。



0 コメント

近況について書いてみました。暗くなりました。気分の良い記事ではないです。幼い。でも、近況。

僕は3月一杯で月面クロワッサンを退団、ご存じの方もおられるかもしれませんが、落語家になると言って京都を出ました。


12月頃から寄席や落語会に通い詰め、弟子入り先を模索していました。

はたして、この人、という方を見つけて、弟子入りを志願、しかし断られました。

断られるというのは当然のことでして、それでもめげずに何か月も何年も通い続けるのが筋なのですが、どうにもバッキリ心が一旦折れてしまいました。あきません、あきませんね。

僕は僕をもうちょっと、なんというかちゃんとした人間やと思っていたのですが、なんや、逃げ根性言うんですか。そんなん、思ったよりもしみついていて腹が立つのですが、実際そうでありまして、ろくなもんじゃねえ。本当にろくなもんじゃねえ。


で、あきません、あきません、と思いながら実家の加古川で過ごしてしたのですが、これもまたあきません。

どれだけあきませんのや、と自分で自分に問いかけて、そんなことを自分に問いかけ続ける生活もあきません、あきません、あきませんと自問自答し続ける日々に耐えられなくなってしまいました。


そうしているうちに友人のT君に飄々舎というイベントに誘われました。

なんだか救われたような気持ちになって、飄々舎に出演。


そのイベントで正直僕は活躍できませんでした。この活躍できない、という状況は身も震える恐怖でありました。

茫然といたしました。

活躍をできない、という状況に、今まであまり会ったことが無かったからです。ありがたいことに。


なぜ活躍できなかったのか。

僕は面白くなくなったのか。


そう考えるとまたあきませんあきませんあきませんの気持ちがぐるりぐるりと胸の内を駆け巡りました。


外的にもあきません、内的にもあきません。

これではあかんではないか。と思ったのです。


そして次に、あかんままではあかん。と思いました。

僕はどうなることが一番、あかん、のか。

これは非常に自分勝手な話なのですが、おもろなくなることが一番あかんのです。

僕はおもろくなくなった自分を許したり認めたりして生きていく自信が無いのです。


しかしながら今のまま、あきませんあきませんで生活をしているのであるならば、確実に僕はおもしろくなくなる。人様に笑っていただくことができない人間になってしまう。それが前回の飄々舎のイベントに出演した時の実感です。


なので、なのでと言ったらおかしいですが、僕は今回京都でイベントをやるという選択をしました。

おもしろくなくなるのが嫌だから。

ですからもう必死です。おもしろいと思われるために必死です。

そうそう意味では、これはどの舞台に立つときもですが、命がけです。

今回はなんだか余計に命がけなような気がします。


いや、暗いな。暗い。

人様に笑っていただこう、という人が書く文章ではないですね。


しかしながら、今回のことで自分のあかんたれさがよくわかりました。能力のなさ、よくわかりました。

僕の能力の低さのせいでどれだけ人に迷惑をかけているのか、考えるだけでぞっとします。

でも悲しいかな、生まれてしまって、僕はこの能力の低い、あかんたれの自分を生きなければなりません。

放りだしてしまいたい気持ちもあるのですが、あかんたれなので、それをする勇気もありません。


僕は生きていくようです。

生きているからには面白くありたいです。

人に笑って欲しいし、もっとおこがましいことを言えば人を救いたい。

そういう能力が自分にあると思っていたい。

僕の人生を肯定してやる他の価値基準を僕は受け入れることができないのです。愚かです。


今のままでは明日死なない理由が無いのです。


ですから一生懸命おもしろいことを考えます。


なんや、もう、暗くて痛い文章です。

しかしながら書いたような気持ちを持っているのは本当で。


自分が暗くて痛い人間かと思うと、また嫌になりますね。


とにかく。8月15日のイベントは、頑張ろうと思います。

面白くしますので、ぜひ、見に来てください。





0 コメント

見出しの文字が大きすぎて嫌

小さくでけへんで。

どないなっとるんや。ええ。

0 コメント